正しく「狂う」こと と、英国パンク

僕たちのような、取り上げられる程のものでもない庶民は、いつの時代だって弱もので、自覚はないだろうが、引きの映像でみたら、きっと傀儡の様だと思う。
どこにでも居るような、社会人の平日を映像にとって早送りしよう、後頭部に眠気がこびり付きながら起きる。ホコリだらけの朝の光には、敵意が篭ってる。急いで食事を済ませ、とある格好に着替えて、電車に乗り込む。電車とは、車輪の着いた箱の繋ぎ合わせのことで、箱のには同じ格好の人たちで一杯詰まってる。箱を降りたら、それぞれの属する集団の場所、無表情な構築物の中に、日が暮れるまで閉じこもる、そこで出された指示をこなすことで、生きる上で大切な知識や財が与えられるから。能力の高い者は自分が自分に指示を出すことすらできる。夜に、閉じこもったことろから出てきて、また箱に乗り込む。この一日で、体の中でいろんな物質やら感情やらが分泌されたと思う。明らかに朝と違く、重く目をお閉じて肩を落として居る人が増えた、心も閉ざして居るように見える。おじさんの目が若い女の子のお尻を見てる。そこからそれぞれの住処に戻る。箱から出た後の様子かは知らない、そこは観察したことない。
僕は、物事を多面的、客観的に見ることに決して長けていないので、あくまで全部、自分の目で見た一日の、主観的な映像を早送りしただけです。それに、わざと皮肉を込めて、悲惨に聞こえるように表現しました。やる事や、属すべき場所があること自体が大きな幸せかも知れない。この映像を部分カットのスローで見たら、その幸せも感じることができる。ただ早送りで見たら、絶対に、幸せなど感じ取れない。生きる上で大事なプロセスは、目の前のことで一杯で、必死に取り組むことも大事だが、引きの映像で、早送りして見てみるのも重要だと思う。穴だらけなことや、もっと幸せになれるはずだと気づく。曲をレコーディングしたことある人ならわかると思うが、部分部分をカットしながら、演奏して居る瞬間は、レコーディングは成功したように思い込むが、完成品を頭から聴くと、思ってたより数段下の出来である現象が起きる。
真面目に生きるしか術は無いのは紛れもない事実だが、真面目に生きているのに、苦しんでいる人もいる。あるいは、自分が苦しいことを気付かないように蓋をしている人。(そのような人に「狂え!」と喝を入れたのが、後で書くパンクという音楽です。) そのような人達には、正しく狂ってもらいたい、特に若者。僕はナルシストで、口調は偉そうですが、一回蓋を取って、自分の苦しくて汚くなった部分を見て、狂って欲しい。自己嫌悪に陥るかは別として、人間は強い生き物だ、(自分が思う)どん底まで病んで、腰を上げて立ち直れた自分がいて、今自分は凄く強いと実感する。バカだから、またいつか平手打ちを食らうと思うけど。「変わり続けてきたからこそ、変わらないままでいる」という表現があるが、「狂い続けてきたからこそ、真っ直ぐ立っていられる」を足したい。人を刺せとも言ってないし、冷たいのを脈に打てとも訳が違う、正しい「狂い」は、この前行った「人間の奥底にあるエゴ=魂」に薬さじを入れて、奮い立たし、揺さぶる行為であると思う。「今の◯◯は魂がこもって無いね」とか、よく耳にするが、世間に圧迫されながら、世間に迎合するように生きていたら魂など錆びかかって居るに決まってる。前回言ったカートコバーンは、まさに短時間内に、錆びを落とす方法を見つけれず、「錆びつくより燃え尽きたほうがマシだ」と言って自決した。これ神格化する人が多いが、カートを尊敬する僕は、アクセルローズの言葉にもあり通り、ただの懦夫による決断だと思う。世間とうまく接していくためには、迎合しかり、狂って闘っていか無ければならない。
世間と闘うといっても、真っ向から闘いを挑んだり、シドヴィシャスのように、自分の胸にカミソリで絵を描く必要もない。簡単に捻り潰されてしまう。世間を馬鹿にすれば良いと思う。「軽蔑されたって、この団体から弾き飛ばされたって、僕は自分の汚いとこも見たし、狂ってるので、好きなようにやります」という態度が、世間を馬鹿にしてるんです。完全の反社会的になれとは言ってない、社会に貢献して、得るべきものを得ることで、人間の人生の基礎的な価値を築く。ただ正気を失い易くなる。
最初に言った、普段僕らが、毎朝、みんなと同じ格好をして、自分らの属する無表情なコンクリート建築物に身を放り込むための交通手段、「電車」が走る為だけに作られた「レール」の上を、真夜中に、自分の好きな格好で、好きな時間に、箱の中に入らず、自分の足を踏み入れみた。これこそ、僕自身も含めて、このレールによって通勤場所に行き、それによって回る社会、社会に貢献してる人々をバカにした行為とも取れる。僕も大人になれば、毎朝。電車に乗って通勤する可能性があるのだから、自分のこともバカにして居る。ただ、鉄道に敷かれたレールを歩いてみて、生活のレールから外れた体験ができるのは確かだ。深夜なのにトキ色が掛かった空に、もやがかかっていて、敷石で歩きにくいものの、足元には錆びついた鉄の道が遠く広く広がっていた。等間隔にそそり立って居る電化柱が、いつも通勤する時にみるのとは全く違う、幻想的なものに見えた。そして、自分より低い位置に街が広がって居た。
別に鉄道を歩くこと自体は、如何程狂ってるとは思わないし、やろうと思えば誰でもできると思うが、こう言う見方も出来たよと言うことです。
人間は社会に貢献しなければ、クズも同然で、男だったら、家族を養う責任感をずっしりと持たなくてはならない。その為に、必死に社会に貢献し、守るべき人を守る為にも迎合していかなければならないことなど、言うまでもない。ただ、メンテナンスが必要である。そんな正しい「狂い」方を世に知らしめた、先人達が、次に書きたい70年代の英国パンクロックです。

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